自分が書いた歌詞のコンセプトについて掘り下げてみましょうか
今まで歩いてきた道への懐疑、新しい道を歩く難儀

ちゃんとしないといけない。間違えちゃいけない。周りに合わせなければ。それを上回らなければ。
そんな風に生きてきたので、自分がどこにいるのか分からなくなることがあります。
正しい選択をしているはずなのに、心が置き去りになって疲弊していく。
そんな瞬間がありませんか?
正しい道には、足跡が残らない

誰かのルートをなぞるように、周りに合わせるように歩くと、確かに割と安全です。
傷つかないし、批判もされません。
でも、そんな道をどれだけ歩いても、自分の生きた証は残りません。
歩きやすいアスファルトには、足跡が残らないんです。
そうして何の足跡も残せないことを、履いている靴、いわゆる与えられた環境のせいにしてみたりもしました。
しかし状況は好転しません。当然です。
正しい道を歩いた意味はあったのか

歩きやすい道でボロボロになっても、疲れて立ち止まっても、ただただ周りに追い越されていくだけでした。
それでも今まで歩いてきたことは確かです。
自分を押し殺して、一般的に正しいとされる道を間違えないように歩いてきました。
ただ、何の足跡も残せないのです。
周囲は同じ道を歩いていても、自分より確かに足跡を刻んでいるように見えます。
もうダメだ・・・と思って歩くのを辞めても、周囲は全く自分に見向きもしません。
自分の命は取るに足らない、あっけないものだと悟りました。
砂の道でしか、自分を見つけられなかった

僕もずっと「正しさ」を選んで生きてきました。
認められること、期待に応えること、要するに承認欲求が原動力でした。
しかし、気づいてしまったんです。
自分の足跡は周囲の人より歪であり、同じ道を同じ様に歩いていては何の足跡も残せない。
普通の人なら足跡を残せる道でも、僕には不可能です。
それは努力不足などではなく、もっと根本的な原因です。
そもそも僕の足跡は他人に愛される形をしていない・・・という感じでしょうか。
「正しさ」と「らしさ」

正しい道を歩いていては足跡は残せないのなら、自分らしい足跡を残す道を歩いてみようと思いました。
普通の人は普通の道に足跡を残せます。ただ僕にはそれが出来ない。
だったら自分の足跡を残せる道を探すしか無いのです。
結果として周囲から孤立することになろうとも、自分を押し殺して周囲の幸せの定義に自分を当てはめるより、結果的に幸せなのかもしれない・・・という儚い希望ですね。
どの道、もう失うものはそう多くありませんし。
『足跡』
そんな曲です。
引きずりながら歩を進めた この足を止める
ため息さえも 追い越して 誰かが進んでいく
遠ざかってく後ろ姿 ヒネた妬んだ目で見送る
背中に伸びる影 気付いた 歩みを止めたのは 独り
伸びた影の先へ 振り返る
何度でも立ち上がって 歩いてきた道には
誰かのそれに紛れ消えた 自分の足跡
確かに感じる 足の痛みすらも疑って
支えて汚れてくれた 靴のせいにもしてみた
引きずりながら歩を進めた 意味はあっただろうか
ため息さえも追い越して 誰もが進んでいく
終わりとは こんなにもあっけないものなんだと
諦め方も帰り道も 忘れて立ち尽くす
「固く歩きやすい道だけを 選んで今まで歩いてきた」
すり減った靴がそう答える
かつて捨てた靴も…そうか
朧気な記憶にただ問う
正しさを追いかけてきた 黒く固い道には
残せるはずもない 歪な自分の足跡
らしさを追いかけるには
「道」とさえも呼べない「道」を進むしかない
たとえ正しくなくとも
正しさを追いかける君へ
さようなら また会えるのかな
誰も見ない砂に刻む一つ目の足跡
さいごに

自分の幸せの定義は、周囲に合わせるものではないのかもしれません。
ただ、周囲に合わせる幸せの形も確かにあります。
あくまでも僕にはそれが出来なかった。
同じ道を歩いているのに周囲に置いていかれるように感じて、振り返ってみると自分の人生は一体何だったんだと打ちひしがれることも多々あります。
だからもう普通の幸せは望むべきではなく、自分なりの幸せを定義して歩いてみます。
周囲から見ると歩きやすい希望への道というより歩きづらい絶望ですが、自分にとっては歩きやすい絶望より歩きづらい希望となり得る唯一の道なのです。
たまに立ち止まって、自分の足跡を振り返ってみるのも良いかもしれませんね。
もしあなたが生きる意味や道に迷ったとしても、あなたにしか残せない足跡があるはずです。
多分。
しらんけど。
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