「思考」という言葉がありますが、「思う」と「考える」は全く別のプロセスだと考えています。
簡単にいうと「思う」は結論先行、「考える」は根拠先行ですかね。
掘り下げていきます。
感情や直感的な「思う」
「思う」とは、感情や直感で出した結論です。
それ自体に何か根拠があった訳ではなく、人間的なものですね。
「自分はこう思う」と決まると、あとはその結論が正しい根拠を探してしまいます。
結論が間違っているとは思いにくい
「思う」自体が悪い訳ではありません。
ただ、もしその結論の根拠に整合性が取れなくなっても、「じゃあ別の根拠を探そう」になりがちです。
つまりは、結論そのものを疑う発想が出にくいんです。
結論の更新より“結論を正当化したい”を優先する心理になってしまうんですよ。
ゴールポストをずらす事が怖くなる
「思う」で出した結論が強いほど、別の可能性が見えにくくなります。
なぜなら、「思う」で出した結論を否定されると、自分の感情や存在を丸ごと否定されたような感覚に陥るからです。
そのため、反証や例外を受け止めるより、跳ね返すことを目的にしてしまいがちなんです。
物事の正しさより、自分の正しさを証明しようとしてしまうんですね。
根拠を集め、組み立てて「考える」
対して「考える」とは、情報をかき集めて自分なりに咀嚼し、それらを組み立てて結論を導く事かと考えます。
論理的な捉え方ですね。
「思う」は結論から根拠を集める、「考える」は根拠から結論を導く、全く逆のアプローチです。
結論はあくまでも仮説の一つ
様々な情報をもとに出した結論は、積み上げられた根拠の最上部に位置します。
感情とは切り離し、「あくまでも現時点で最も可能性が高い仮説はこれ」として旗を立てるイメージです。
その旗は、積み上げられた根拠が多く硬いほど揺らぎないものになりやすいですね。
ゴールポストは動かせる前提である
もしその結論が間違えていたとしても、それは新たな根拠を得ただけに過ぎません。
なので、立てた旗を一旦抜き、新たな根拠を適切に積み上げ、新たな場所に旗を立て直せばいいのです。
“自分”が正しいことを証明する必要はなく、”最終的な自分の発想”が正しければそれで良いですから。
「思う」と「考える」はプロセスの相違
「思う」と「考える」は優劣ではなく、あくまでもプロセスの違いです。
どちらが良いとかではなく、そもそも方向性が違うのです。
「考える」と、本質を捉えやすい
「考える」が出来る人の方が、物事の本質に辿り着きやすいでしょう。
何か情報を集めて結論を出し、それが間違っていたらそれすら情報として受け止め、新しい結論を出す…
これを繰り返せると、その物事を様々な視点から多角的に捉えられるでしょうから。
他の物事にも応用を効かせられる発想にも辿り着きやすいですね。
「思う」人の方が魅力的に映りやすい
「考える」ばかりだと、周りの人からは人間味を感じてもらいづらくなります。
その点「思う」で行動する人は、勢いや明るさや人間味が出ます。
理屈や難しいことを考えず、感情のままに行動してエネルギッシュな人の方が魅力的に映る事が多いでしょうし。
理屈が多少荒くても、熱量が大きければ、そういう人の方が愛されますよね。
僕は明らかに「考える」が優位になりがちなので、親しみやすい文章を心がけているつもりです。わーい。
「思う」と「考える」は配分が肝要
理想は「思う」と「考える」を適宜使い分ける事ですね。
ただ、意識しないと出来ないでしょう。
多くの場合は「思う」が優位になりがち
人間はどうしたって感情の生き物なので、意識しないと「思う」が先に出ます。
普段会話をしていても「〜と思う」と言う頻度は「〜と考える」より多いでしょう。
なんとな〜く生きていると、何かの物事について思考する場合、まずは直感や感情的に結論を見出し、その結論を導き出した理由を後で考える・・・という思考回路をたどる人が多いです。
その結論は何を元に導き出しましたか?
そういった人に「なぜその様な結論に至ったのですか?」と聞いてみると、
- だって普通そうじゃない?
- こういう時は大抵そんなもん
- いや、何となく
みたいな曖昧な答えが返ってきがちです。
過程の末に考えて出した結論ではなく、思った結論が先行して過程を後から作る場合、その結論に至った理由を聞かれても曖昧に答えるしかないんですね。
ちゃんと考える人は、例えばこういった回答をします。
- ここがこうなっているから、こうなんじゃない?
- 過去にこういった事があったから、今回のケースだとこうなんじゃない?
- こういうデータがあるから、この可能性は否定できないよね?
- こう考えると辻褄として成り立つよね
その結論に至った理由を聞かれても、その結論に至った思考を辿ればいいだけなので、具体的な回答ができるんです。
僕は「考える」寄り。「考えすぎ」とよく言われる・・・。
僕は分析して考えすぎるクセがあります。
考えすぎるあまり、不安で動けなくなってしまうこともしばしば・・・。
例えば人と何かを話したとき、相手の細かい動作で「自分の発言が不快だったかな?」「あ、今の一言は不要だった・・・」みたいなことをすぐに考えちゃいます。
また、相手の発言に対しても「それはどういう心理なんだろう?」「その発言の目的は何だろう?」みたいなことを無限に考えてしまいます。
だから、大抵の人には「考えすぎ」と言われますね・・・。
治すべきかは分かりませんが、多分治らないでしょう。
なので、元気いっぱいに屈託なく「こう思う!」と言っている人を見ると、危うさを感じつつも自分には無いその真っ直ぐさを少し羨望します。
その結論は「思った」のか「考えた」のか
普段から何かを決めた時に、その結論は「思った」のか「考えた」のかを意識すると結構面白いです。
また、それを意図して切り替える事ができれば、世界の解像度は上がり、視野も広くなっていくでしょう。
この様に「思う」と「考える」を分けて両立させる事を「思考の分離」と呼んでいます。勝手に。
思考の分離は意識しないと出来ない
基本的に、思考の分離は意識しないと出来ない人が大半です。
例えば「確かにそう思う、でもこう考える」という風に、別のプロセスである「思う」と「考える」は両立可能です。
人間はどうしても感情が優位になるので、意識しない限りは「思う」ばかりになりがちです。
例えば、“考えている”つもりでも、集める根拠が自分に都合のいいものだけになっていると、それは“思う”と同じなんです。
当然、それ自体がダメではありません。
コインの裏表の様に、「思う」「考える」の両面があると知るだけで、あらゆるものの見え方が変わることもあります。
まとめ:思考の分離は難しい
思考といえど、「思う」と「考える」は全く別のプロセスです。
意識して分けて扱えるようになると、世界の解像度が上がります。
ただ、解像度が上がって見えた世界が綺麗とは限りません。
そこが歯がゆいんですけどね。
あくまでも世界が綺麗に見える術ではなく、世界を詳しく見る術でしょうから。
具体例はnoteにて公開しています。
「思考」という言葉がありますが、「思う」と「考える」は全く別のプロセスだと考えています。 簡単にいうと「思う」は結論先…



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