【自戒】「次の誕生日=余命」と考えると、自分への解像度が上がる気がする。死に様から見えてくる生き様とは?

30歳になりました。マジ?

小学生の頃はカービィのエアライドにどハマりしていて、30歳とは非常に大人なイメージを持ってました。

しかし実際に30歳になってみると、カービィのエアライダーにどハマりしているただの30歳児ですよ。

子供の頃から何も変わってない…。

閑話休題、僕はつい「まだ時間も体力もある」と思い込みがちです。

実際にエアライダーはまだ1日10時間くらいやれちゃう。ふへへ。

でも、その前提って実はけっこう危険で…。

実はここ1〜2年で、友人が急な事故や病気で生死の境をガチで彷徨う出来事が続きました。
明日は我が身。

そういったこともあり、「もし次の誕生日が余命だったら?」と考えることも増えてきました。

「時間はある」が前提だと、成り立たない年齢になってきた訳です。

だからこそ、一度立ち止まって“これからの生き方”を見つめ直したくなりました。

という訳で、30歳からの人生をどうするかを考えます。

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なぜ「いつか」を信じてしまうのか

生きていると、無意識のうちに「また明日がある」と思い込んでしまいます。

これまで大きな問題なく生きてこられた経験が、「きっとこれからも大丈夫だろう」という錯覚を生むんですよ。

自分にも寿命があるんだという実感は薄いですよね。

脳は「今じゃなくていい理由」を探すのが得意です。

疲れているから、まだ準備ができていないから、いつかもっと時間ができたら…。

そうやって先延ばしの言い訳を作るのに慣れてしまっています。少なくとも僕は。

ですが、後悔は時間が解決してくれるものではなくて、行動によってしか薄まらないんですよね。

やらなかった時間が長くなるほど、後悔は残り続けてしまいます。

だからこそ一度「いつか」という幻想を手放してみることが、思った以上に人生を軽くしてくれるのかも。知らんけど。

「次の誕生日=余命」という考え方

「もし次の誕生日までしか生きられなかったら?」と考えると、視点が一気に変わります。

急な病気であと1年しか生きられない体になってしまったとしたら…とかですね。

死を見つめるほど、逆に“どう生きたいか”がハッキリするんです。

1年という期間は、区切りにはちょうど良い長さですよね。

後回しにできるほど長くはないけれど、何かを積み上げるにはある程度十分な時間でもあります。

その期間でなら「本当にやりたいこと」をイメージしやすいのではないでしょうか。

そして、余命を想像すると多少の焦りや不安が生まれますが、その感情が優先順位を鋭くしてくれます。

会いたい人、作りたいモノ、行きたい場所など、何を先に選ぶべきかが、自然と明確になっていくんですよね。

「次の誕生日=余命」哲学がもたらす3つの変化

「もし次の誕生日までが余命なら?」という視点は、日常の選択が明確になりやすいです。

無理に気合いを入れる訳ではないですが、淡々と“本当に大事なこと”が選び抜かれていく感覚に近いかも。

劇的な変化というよりも、小さな選択の質が変わるんですよね。

1. 行動が選び抜かれる

余命を意識すると、惰性でやっていたことが自然と減っていきます。

「とりあえず参加しておく」「なんとなく続けている」みたいな行動よりも、会いたい人に会う、作りたいモノを作るなど、心が動くものだけを優先しやすくなるんですよ。

その様な“選び抜かれた行動”は、人生の密度を高めてくれます。

2. 今この瞬間の価値が上がる

時間には限りがあると思えば、些細な瞬間の温度が上がります。

「これは二度と来ない時間かもしれない」「もう二度と会えないかもしれない」と思うだけで、同じ景色でも鮮やかに見えてきますし、同じ時間を過ごす人を尊く思えるものです。

また、健全な生活を整えることも、未来の自分に先送りしなくなります。

食事や睡眠や運動を大切にする気が起きるんですよ。

人によっては、余命幾ばくなら「好きなものをいっぱい食べたい!」とかもあるでしょうけどね・・・。致し方なし。

僕もたまに暴飲暴食したくなります。

3. 自己肯定感が「成果」ではなく「姿勢」から生まれる

余命1年を意識すると、「何を達成したか」よりも「どう生きたか」に評価の軸が変わっていきます。

“客観的にどう思われたか”より、”自分に何が出来たか”の方が大切に思えてくるんですよね。
僕は出来るだけそう考えるようにしています。

そうすると結果に振り回されすぎず、誠実に積み重ねている自分を肯定しやすくなるのではないでしょうか。

誰に何を思われようと、自分が正しいと思う行動をし、ほんの少しでも前に進んでいれば、それだけでちょっと胸を張れるようになるんです。

美しい死に様から逆算する、美しい生き様

どれだけ前向きに生きていても、人生の最期に後悔をゼロにすることは不可能でしょう。

でも、後悔を少なくすることはできます。

そのためには、毎日の小さな積み重ねが必要になってくるのです。

「やらない後悔」は一生つきまといますが、「やった後悔」は振り返れば思い出になることもあるでしょう。

その時に”正しい”と思う行動をしたのなら、それにより生まれた傷が心のどこかに確実に残り、その人の人生を土台から支えてくれるんですよね。

そのような傷を負った人は、謙虚さに似た独特の憂いや静けさ、落ち着きや覚悟のようなものが地盤を固めます。

それは伝わる人には伝わるものなんです。

自分が目指す「最期の姿」

もし本当に余命が1年だとしたら、僕はどんな自分で最期を迎えたいでしょうか。

そう考えると、朧に答えが浮かんできます。

派手な成功、大きな称賛、大金持ち、愛される存在…そういったものは本当に欲しいですか?

僕は胸を張って言います。
全部欲しい(強欲)。

ですが、1年で達成する事は…まぁ〜無理でしょうね。

しかしながら「自分が納得できる形で生きられたか」という観点であれば、ある程度何とかなりそうです。


まず音楽
楽器も曲作りも何もかももっと上手くなりたい。

最近は楽器練習ばかりで曲作りも出来てないので、今のままではダメだと思っています。


次に身体づくり
筋肉をつけて体も絞って、心身ともに健やかでありたいですね。

どうせ生きるなら、腹筋は割れてた方がお得でしょう。

お得とは…?(自問自答)

最近撮ったおなかの写真(クリックで表示)


最後に自分の哲学や考えをまとめておくこと。
このブログがそうですし、作詞もそうかも。

誰かの役に立つとか、立たないとかじゃなくて、自分が何を考えてどう生きてきたかを言語化しておきたいんです。
結構楽しいですよ。

それが、そのまま僕の人生経験を形にする、いつかの誰かにとって興味深い記録になる気がしています。

もしそれらが誰かの役に立てたなら、自らの命を持って他者に貢献できたと実感できるかもしれませんね。

まとめ:余命を決めると鋭くなる

「もし次の誕生日までが余命なら?」と考えると、人生は少し研ぎ澄まされます。

大事なものが取捨選択され、迷いが自然と減っていくんですよね。

そうして積み重ねた一歩ずつが、気づけば多くの足跡になると思っています。

実際に人生をどう終えるかは、その瞬間になってみないと分からないでしょう。

ですが、悔いの少ない形に近づけるための一歩なら、今すぐ踏み出すことができます。

僕はやりたいことが山ほどあって、正直1年じゃ全く足りません。

やりたいことが多いのは、まだ生きる理由がたくさんあるということです。

「このまま、もう二度と目覚めなければ良いな」と思いながら眠りについていた頃を思い出すと、今の方が充実しているかもしれませんね。

最近はカービィのエアライダーが楽しすぎてヤバいので、前作同様にクリアチェッカーを全部埋めたいなと思っています。が、時間がない…。

これを読んでいるあなたも、もしどう生きたいか迷った時は、「次の誕生日=余命」と考えてみるのも参考になるかもしれません。

本当に次の誕生日が来た時に、もう一年余命を伸ばしてみるか、本当に終えるか、それはその時に考えればいいのですから。お互いに。

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