実家の愛犬の体調があまり良くなく、もう長くないかもしれないと聞きました。
中学の頃から一緒に過ごしてきた存在なので、当然心中穏やかではいられません。
僕の人生の半分以上は、その子がいるのですから。
数年前には、もう1匹の愛犬を見送ったこともあります。
その子の体調が急激に悪化し、夜間に緊急入院したものの病院で最期を迎え、看取ることは叶いませんでした。
その時も、今にも目を開けそうな、でも二度と動かない姿が本当に辛く、命の終わりはこんなに辛いのかと絶望していました。
せめて、改めて今の子に「出会えて良かった」と思ってもらえるように、残された少ない時間を大切にしたいと思い、死や別れについて自分なりに整理してみたくなりました。
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生きることは、死へのプロセスにすぎない
全ての生き物はいずれ死にます。
現時点では例外は存在していません。
“命”の概念が生まれてから、どの生物も未だ不死を成し得ていません。
そう考えると、「生きることは、あくまでも死へ向かう過程である」と言えなくもありません。
少し極端な言い方をすれば、死は生物の完成です。
生まれてから死ぬまでの全ての出来事は、死の瞬間をもって一つの”生”として閉じられます。
しかし、死んだからといって“生きていた事実”が消える訳ではありません。
存在したこと、過ごした時間、関わった相手に残したものは、形を問わず確かに残ります。
だからこそ、死を前提にして生を見つめることには、それなりの意味があるのだと思っています。
快い死を迎えることが、”生きる”ことかもしれない
死そのものは避けられません。
であれば、どう突き詰めても考えられるのは「どの様に死を迎えたいか」くらいです。
もちろん、理想通りの最期になることは不可能でしょうし、後悔や苦しみをゼロにすることも不可能でしょう。
それでも、少しでも納得できる最期に近づくことはできるかもしれません。
やるべきことをやった、伝えるべきことを伝えた、自分に出来ることは成し遂げた。
死ぬのではなく、生き抜いたのだ。
そう思えるだけでも、最期の景色は多少変わる気がします。
そう考えると、人生とは快い死を迎えるための準備の様にも思えますね。
人との出会いと別れも同じかもしれない
この考え方は、人との別れにも少し似ている気がしています。
人と出会うということは、同時に別れの始まりでもあるからです。
出会ってしまった人とは、寿命がある限りいつかは別れます。
その別れは、ケンカやすれ違いかもしれません。
価値観の違い、環境の変化で疎遠になるかもしれません。
厳密には、死別以外ならその”別れ”は一時的なものであり、再会の可能性は完全には閉じていないでしょうけども。
が、たとえどれほど愛していようと、或いはそうでなかろうと、関係に終わりが来ること自体は避けられません。
そう考えると、一緒に過ごしている時間は”別れまでの過程”と考えることもできます。
寂しいかもしれませんが、僕はむしろその方が関係を丁寧に見られる気もするのです。
人間関係の目指す先は「”出会って良かった”と思える別れ」なのでは
人間関係というと、長く続くことや、ずっと仲良くいられることが価値のように感じますね。
当然それも大事です。
しかし曖昧なので、もう少し具体的に考えてみます。
僕が出した一つの結論は「別れる時に”出会えて良かった”と思えるかどうか」です。
どのような形であれ、永遠の別れの瞬間が来たときに「出会わなければ良かった」ではなく「出会えて良かった」と本気で思えるなら、その関係を心から大切にできた証拠なのかもしれません。
別れてすぐはそう思えなくても、時が経つにつれてそう思えたなら十分かもしれませんね。
そう考えると、他人とどう接するかが見えてきます。
その人を雑に扱わないこと、感謝や謝罪を伝えること、当たり前だと思わないこと。
完璧にこなすことが出来るなら理想ですが、恐らく不可能です。
しかし、少なくとも永遠の別れの際に「もっとちゃんと向き合っておけばよかった」という後悔が残る関係には、可能な限りしたくありませんね。
似た哲学の例は?
僕のこの様な考えに、少し似ている哲学はいくつかある模様です。
ハイデガー
ハイデガーは、人間を「死へ向かう存在」として捉えたそうです。
人は必ず死ぬからこそ、その有限性を引き受けた時に、今の生き方が本物になるという考え方です。
僕の考えも結構近いですね。
死を考えることが優先順位の明確化につながるという点では、概ね僕と似た哲学です。
ストア派
ストア派は、死や別れを避けられない自然なものとして受け入れ、その中で自分の態度を整えることを大切にするそうです。
終わりそのものをどうにかするより、終わりに向かう間の在り方を整えるという発想です。
そう考えると、僕の哲学とかなり通ずる部分はありますね。
仏教
仏教には、すべては無常であるという考え方があるそうです。
形あるものは変わり、続いているように見える関係も、いつかは移ろっていく。
出会いも別れも、例外ではありません。諸行無常の響きあり。
少なくとも”永遠に続くこと”を前提にしないという考え方は、僕も何となく持っています。
逆に、反対の哲学の例は?
一方で、死や別れを中心に生を考えない哲学もあります。
むしろ、そのような考え方の方が一般的には健全だと感じる人も多いかもしれませんね。
エピクロス
エピクロスは、死を過剰に問題にする必要はないという方向の考え方だそうです。
生きている時には死はまだ来ておらず、死が来た時にはもう自分はいない。だから死を中心に人生を組み立てすぎるのはズレている、という見方です。
この考え方は目から鱗でした。
生きている時には死は来ていない、死が来た時には自分は意識できない。
なら死を考える意味はなく、生きることを考える。
その発想は今まで無かったので、少し感銘を受けました。
スピノザ
スピノザは、自由な人間は死よりも生について考えるという方向の思想だそうです。
終わりを基準にするのではなく、生そのものの力や充実をどう高めるかを重視します。
自由人は死について考えず、その知恵は死への恐怖ではなく、生の追求に注がれる。
死を前提に生を肯定する僕の考えとは逆に、生そのものを肯定しているのですね。
これは面白い。
残り時間を大切にしたい
ここまで色々と考えを書いてきましたが、結局は愛犬との残り時間をどう過ごすかです。
少しでも安心して、穏やかに、明るく健やかに過ごしてもらいたいですね。
こちらの不安や寂しさは当然ありますが、それを感じさせない様に、この子にとって居心地の良い時間を増やしたいと思っています。
最期の瞬間に誰が何を思うのか、恐らくその時になっても誰にも分かりません。
数年前に亡くなったもう1匹の子も、果たして何を思い逝ったのかは知る由もありませんから。
でも、せめて「幸せだった」と感じてもらえるように、残された時間で自分に出来ることはしたいと思います。
お互い後悔のない様に。
まとめ
生きることは死へ向かうプロセスであり、人との出会いもまた別れへ向かうプロセスなのかもしれません。
そう考えると、人生も人間関係も、犬をはじめとしたあらゆる生物に対して、終わるその瞬間まで何か出来る事があるのかもしれません。
だからこそ、今この瞬間に向き合う事が肝心です。
せめて最後に「出会えて良かった、名前をつけて貰えて、呼んで貰えて幸せだった」と思ってくれるように願いを込めて、愛犬との残り少ないであろう時間を大切にしたいと思います。
そしてその気持ちは、人との関係や、自分自身の生き方にも、そのまま繋がっている気がしています。
とりあえず、愛犬が食べたことが無さそうなおやつを、さっきたくさん買ってきました。
体調が良い時に、気が向いたら食べてみて欲しいですね。
犬用のおっとっとやマリービスケットを用意しました。
人間用のやつは美味しいよ。一緒に食べようね。




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