この曲のコンセプトについてです。
中学時代の自分を思い出して書いた曲ですね。
自分は愛される人間ではない
めちゃくちゃ自慢ですが、自慢ではありませんが、中学時代の僕は部活(ソフトテニス)で1番手の前衛、勉強も学年1位でした。
自分で言うのも憚られますが、自分がずっと1位であることが当たり前になっていくにつれ、周囲の誰からも褒められなくなっていきます。
周囲からは「どうせ1位なんやろ?」的な視線になるんです。
そうなってくると、周囲の”ランキングの輪”からは自然と外されていきます。殿堂入り的な。
そして、2位以下の人たちの中での争いになり、2位以下の人が称賛され持て囃されます。
どうせ1位はりきやだから、わざわざ褒めなくていいだろう、みたいな。
親ですらそうでした。
1位の僕を褒めず、2位以下の友人を「あの子は賢い、凄い」と褒めていました。
誰かの中で1位になれたら
数値として部活では1番手、成績では学年1位でした。
しかしそれは、誰かの中での1位とは別物だという感覚がありました。
要するに、1位の僕より、2位以下の誰かを魅力的に感じる人は、ごく一般的だということです。
むしろ、その方が多いです。
だから、当時の僕は「たとえ自分は1位であっても、2位以下の他人の方が価値がある」と考えていました。
その様な”人間的な価値”という側面において、僕は誰かの中での1位にはなれないのだという絶望がありました。
勉強でも部活でも1位なのに認めてもらえないなら、一体何をどうすれば誰に認めてもらえるんだろうか。
自分はどうしても“誰かの中での1位”になれない人間なのでは。
魂が人に愛される形をしていないのではないか。
もし自分の価値を1位だと認めてくれる人がいれば、誰かの中での1位になれたのなら、自分の存在が証明されるのかな、と苦しんでいました。
誰かの中の何かになれたら
1位の自分には価値が無く、2位以下の他人の方が価値がある。
であれば、自分も1位でなくても認めてもらえる事があるのだろうか。
しかし、1位でも誰からも認めてもらえない自分は、1位ではなくなった時点で誰からも見向きもされないのではないか。
もし自分が部活や成績で2位以下になってしまった時、新しい1位はおそらく称賛されるだろう。
それは数値的な1位としても、誰かの中での1位としても。
そして1位ではなくなった自分は、誰からも見向きもされなくなるだろう。
それは数値的な1位でもなくなり、誰かの中での1位にもなり得ないから。
自分はどうすれば良いんだろう?
どうすれば皆の様に、1位じゃなくても認めてもらえる人になれるんだろう?
皆の様に”誰かの中の1位”になりたい、自分の存在価値を証明したい。
でもまずは、自分で自分を認められるようになることが大切なのでは。
自分を認めてあげられるのは、もしかしたら自分だけかもしれないので。
『名札のない胸に』
そんな曲です。
名札のない胸に余白だけが揺れてる
誰かの視線で輪郭を帯びたい
街灯がつくたび影が一人増える
生み出した色が誰のものか曖昧で
笑顔の額縁に手を当ててみたけど
温度だけ残って形はすぐ溶けた
「君は君でいい」
大層便利な呪文
それで救われるなら今ごろ笑えてる
“私”になりたい
影も形もない
色も絵柄もない
欠けたピースのまま
誰かの額に入りたい
私は誰かの何か
その“何か”になれたら
透明が終わる気がして
名前のない光を探す
意味が欲しい
ただ、意味が欲しい
影に触れて確かめるみたいに
空白のままの名札にホコリだけがついてる
誰かの期待で輝きを帯びたい
風が通り過ぎて雨雫を攫う
消え去った熱が誰のものか曖昧で
正解のない問いに答えを考えても
本音なんて無縁で
増えるのは いつも”間違い”で
答えが欲しい
けど知るのは怖い
選んだ瞬間に帰れなくなりそうで
私は誰かの何か
その“何か”になれたら
空っぽのままの胸に小さな光が灯る?
意味が欲しい
そう、意味が欲しい
指先で無いものを撫でる
「意味なんて最初からない」
そう言って笑う声
それもまた
確かな優しさでも
私の胸の音は
汚れただけの空白を
余白と示すために
連なってきたんだ
だから せめて だから せめて
輝く影になる
誇りのない名札に
色を刻む
みんな誰かの何か
その“何か”になりたくて
知らない自分を拾い集め
影の端を縫い直す
いま私ただ、君が欲しい
影に触れて確かめるみたいに
誰かの何か
でもまず”私”は誰か
透明を終わらせたくて
名前のない光を抱く
まだ名札のない胸に余白だけが揺れてる
私の視線で輪郭を帯びてく
さいごに
結局、部活は引退するまで1番手、成績は卒業するまで1位でした。
へいへ〜い(ドヤァ)
中学卒業前の最後の期末試験にて、りきや少年はもう1位に興味がなくなったので、わざと問題を解かずに順位を下げました。
「最後くらい、誰か1位になって気持ちよく卒業してや〜。どうせ自分は認めてもらえないんやし」と投げやりでした。
中学時代の僕を思い出してみると、めちゃくちゃ鬱屈としてますね・・・。
まぁ〜あの頃はヒネてましたね。今もか。そうかも。
しかしまぁ、多感な中学時代に親にすら承認されなかった後遺症というのは、大人になっても存外尾を引いてしまうものです。
自分で自分を認めてあげられる生き方をして、もしその先に自分を認めてくれる人が一人でもいれば、それを幸せと感じるものなんでしょうかね・・・?


コメントを書く